2009年 08月 29日
恵みの雨 |
週末に雨が降る予報が出ていた。けれども朝起きてみると素晴らしい晴天だったから、多分誰も信じていなかったに違いなかった。正直言えば私もそうで、だから午後から出掛けようと考えていた。旧市街へ行こうか、それとも山へ行こうか。あれこれ考えたが結局出掛けなかったのは今週末は長い夏の休暇から戻ってくる人達で道が何処も道が混んでいそうだと思ったからだった。実際近所の人たちも一斉に戻ってきて急に騒がしくなった。夏の閑散としたピアノーロとは来夏までお別れ。そんなことを考えているうちに驚くような大粒の雨がぼとり、ぼとりと落ちてきて見る見る間に地面を濡らしていった。テラスの奥から思いがけなく降り出した雨に往生している人々を眺めるのはなかなか面白かった。もう少し涼しい季節ならば着ている上着を脱いでは傘の代わりに上にかざすことも出来るというものだが、こんな季節は脱ぐものなどない。軒下を目掛けて走っているのは、髪を整えたばかりの近所のご婦人。それからブランドの鞄を濡らしたくないのだろう、若い女性は鞄を全身で包むようにして走っている。私は鞄が濡れるのも嫌だけど、足元が濡れるのはもっと嫌い。家に居てよかった、と人々の様子を見ながらそう思った。しかし世の中には色んな人がいるものだ。大粒の雨が降り落ちてくる空を両腕を広げて喜んでいる人もいる。気が狂ったか。いや、彼は心の底から雨を欲していたのだろう。広い庭の持ち主か、それとも農家の人なのか。きっと乾いた大地も彼のように喜んでいるに違いない。凄い雨だと呟く私に、栗の為にもこんな雨が必要だったな、と相棒が答えた。え、栗? 確かに、スカースコリの友人家族は家の周りをぐるりと取り囲む栗林を所有している。それで数年前までは私たちも栗の収穫時期になると手伝いに行ったものだ。手伝った報酬はつやつやの大粒の栗。そして自家製の蜂蜜とやはり自家製のワインだ。お疲れさん、有難う、と地下倉庫から自家製の生ハムやサラミを引っ張り出して振舞ってくれるのも嬉しかった。近年は駄目なのだ。急傾斜の山の斜面を転げ落ちないように歩きながら栗を拾う作業は簡単そうで大変だ。1日やったら1週間体が痛む。あれは慣れた人や、または若い人達がすると良い作業である。と、彼は友人達に最近会ったばかりだから栗のことを思い出したのかもしれなかったが、降る雨を見て栗の実りに結びつけるなんて面白い発想だと心の中でくすりと笑いながら、本当だ、栗にとっては良い雨だ、と相槌を打った。そうだ、恵みの雨。そんなことを考えながら降り続ける雨をずっと眺めていた。
by yspringmind
| 2009-08-29 23:33
| bologna生活・習慣