2008年 10月 06日
名のわからぬ村 |
樹々が生い茂る真ん中に路があった。路は左右に曲りくねりながら何処までも続いているようだった。山というには高さが充分でない、丘と呼ぶには少々高すぎる、そんな場所を車で走っていた。秋はもの悲しく淋しい、とはいったい誰が言ったのか。それはピタリと的を得ているようで、同時にそんなことはないとも思う。少なくともガラス窓越しに見える景色はもの悲しくも淋しくもない。午後の陽に照らされたそれらは晴れ晴れしていて、自然の恵みに対する感謝の気持ちが心の底から沸き起こる。秋とはそんな季節なのだ、と思う。紅く染まる植物が少ないエミリア・ロマーニャ州とトスカーナ州の間に在るトスコ・エミリアーナの丘陵地帯は今、黄金色に染まりつつあり、ところどころに燃えるような紅色が差されていた。近頃は週末の小旅行が楽しみで、週明けにはもう次の週末のことを考える。忙しくてすれ違いになりがちな私と相棒が一緒に過ごす時間を意識的に作り出しての小旅行なのだ。だから楽しみでない筈がない。それでいて予定通り目的地へ行くことはあまりない。何時も出発が予定より遅くなるからだ。この週末もそうだった。時計の針はもう16時を回っていた。疲れて休みたがっている相棒を急いで急いでとはやしたて、私達はトスコ・エミリアーナへ向かった。何処へ行こう。何処か知らない遠くへ行きたい。そんな言葉を交わしながら先へ進む。太陽との競争だ。うっかりするとあっという間に陽が暮れてしまう。それでいて私達は田舎道を選んで走る。 知らない遠くとは何処だろう。 言った本人が首をかしげて地図を開く。地図に記載されている地名は何処も知った場所ばかり。私達はこのあたりを良く知っているのだから。もう何年も足を運んでいるのだから。そういいながらもいつもと違う道を選んで進んでいくと必ず見知らぬ村に遭遇してはまた次の村に出会う。地図にも載らない小さな村だ。どの村にも必ず小さな古い教会があって、ここがイタリアであることを改めて教えられる。古くても良く手入れされた、村人達に愛されている教会だ。村の彼らは古いものを取り壊して真新しくするなんてことはしない。祖父のその祖父のそのまた祖父の、500年も前からあるような幾つもの戦いを免れてきた古い教会は、多分あと200年経っても同じ姿でいるに違いない。何という名だっただろう。私をいっぺんに魅了した。樹々が生い茂る間の、曲りくねった道の左右にその村はあった。この村の中では車の音など立ててはいけない。そんな気持ちになって速度を最低まで落として猫のようにそろりそろりと歩くように走る。石造りの小さな家が幾つも不調和に連結しているかと思えば、栗林の中に頑丈な石の家がどしりと在った。多分人口50人にも満たぬ村だ。冬はさぞかし寒いだろう。空っ風が吹くかもしれない。それとも霧が立ち込めて体が深々と冷えるのかもしれない。寒いのが大の苦手な私には到底無理な話だけれど、こんな所で四季を感じながら暮らしてみたいと一瞬夢をみた。この村の隅っこに週末をのんびり過ごす小さな石の家でも良いと思う。夢とはそんなものだ、非現実的なのだ。けれども夢のまま終わらせないで、いつか実現出来たら良いと思う。太陽との競争は太陽が勝ち、私達は途中で引き返すことになった。灯もない暗い田舎道を走りながらこんなだっただろうか、いいや、あんなだったのではないだろうかと、村の名前のことばかりを何時までも考えていた。
by yspringmind
| 2008-10-06 13:30
| 小旅行・大旅行