2007年 11月 05日
共存生活 |
ボローニャの街を歩いていたら古いポルティコのひび割れからこんな植物が生えているのを見つけた。いつからこんな風に映えているのだろう。どうしてこんな所に映えるようになったのだろう。それにしても誰が引っこ抜いて処分するでもなく、生えるがままにしてあることが嬉しい。イタリアはそういうことが多々在る。私が昔働いたローマの職場は街の中心の地味な教会の横っちょで、手早く言えば教会の建物の一部であった。教会が経済的な理由で貸し出したそのスペースを私はとても好んでいた。厚い壁、高い天井、そして建物の中に藤の木が生えていた。昔教会が増築した際、増築スペースに藤の木が既に生えていたのであろう。それを切らずに、枝がちゃんと外に伸びるように教会を増築したらしかった。藤の木は古いものらしかった。建物の上のテラスと呼ばれる空間には自然に出来た大きな藤棚があり、春先にはその下で遠くに暮らす人々に手紙を書くのが好きだった。ローマの春は早く、3月にもなれば日向に椅子を引っ張り出してそんなことが出来たものだ。春の到来の早いローマの藤が開花するのもやっぱり早く、ほんの少し得したような気がしたものだ。私はその職場を離れボローニャに戻ってきたけれど、春になると木が生えている職場のことを思い出しては、懐かしがった。その木には時々水をくべなくてはならなかった。思い出しては誰かがペットボトルに水を汲んできて、全く手が掛かる、と言いながらも楽しそうに水遣りをした。木は物置の扉の向こうに存在するのでいつも見える訳ではない。だから誰か初めて職場に来ると、ほら、ここに木が在るの、とほんの少し自慢するのだ。どうして自慢したい気持ちになったのか。今の今まで考えたことがなかったが、恐らく自分達と木が同じ空間に共存しているのが嬉しかったのではないかと思う。あれからもう何年も経つが、あの木は今も元気だろうか。可愛がって貰っているだろうか。
by yspringmind
| 2007-11-05 12:30
| bologna生活・習慣