2009年 11月 02日
隣人 |
夜になって雨足が強くなった。こんな季節の雨の晩は過ぎた様々なことを思い出しては考え込んでしまう。先週末、また熱を出した。今度は風邪と言うよりは疲れ、疲れは単なる体の疲れではなくて心の疲れからくるものらしかった。それで天気は抜群に良かったけれどひたすら眠ることにした。私には眠りが必要だったらしい。眠っても眠ってもまた眠ることが出来た。幾度目かの眠りの中で、私は昔のことを夢の傍らから見ていた。私は異文化に憧れる子供だった。異文化だけでなく、例えば異なった生活シーンや町並み、風景に関心を示す子供だった。子供の頃に見たテレビ番組の影響だろう。日曜日の午前にやっていた、日焼けした魅力的な笑顔の日本女性が飛行機に乗って世界中を旅する番組が好きだったから。あの頃、外国へ行くのは今ほど容易いことではなかったし、外国語を操る人だって今ほどは居ない時代だったから、彼女が特別輝いて見えたのは決して不思議なことではなかった。多分私の世代の人なら、一度くらいは憧れたに違いない。そしてそれから20年ほど経って私はアメリカで生活するようになった。全てが万事順調だった訳ではなかった。予期していなかった類の問題に何度も遭遇した。けれどそれでも私は幸せだった。当時の写真を見れば直ぐに分かる。私は何時だって自分でも驚くくらい大らかな笑みを湛えていた。あの頃ちょっと背伸びをしてノブヒルと呼ばれる界隈にアパートメントを借りた。背伸びしたとは言っても友人達との共同生活だったから決して贅沢で優雅な生活ではなかった。私の部屋には大きな出窓があった。古い、立て付けの悪い窓だったがとても気に入っていた。日当たりの良い部屋で、天気の良い日は冬でもヒーターなど必要がないくらいだった。私は出窓に海辺で拾った白い貝殻や幾種類もの小さなサボテンと球根の鉢を並べていた。右手の出窓からは隣の窓が見えた。隣には老人が住んでいた。いや、正確には老人ではなかった。弱々しくて痩せすぎだったから老人に見えたのだ。彼は病んでいたのだ。多分60歳をやっと超えたばかりだったに違いない。私の窓と彼の窓の間には小さな空間が設けられていて、彼は其処に植木を幾つも置いていた。病んでいて外に出られないのだろう、一日に何度か立て付けの悪い窓を開けて植木をいじったり水遣りをするのが楽しみだったようだ。彼はある日私の部屋のラジオから流れてきた歌を聴いて頷きながらいい歌だと言った。U2のOneだった。私もまた頷いていい歌だと答えた。それから彼は植木のひとつを手にとって君にあげるよと言った。私はそれを受け取って窓と窓の間の空間のもう少し私側に植木を置いた。ある夜中、窓越しに彼が植木に水をくべているのが見えた。どうしてこんな夜中にと思いながらも目と目があったので互いに手を上げて挨拶した。おやすみなさい、と。翌日幾ら待っても彼の姿が見えなかった。どうしたのだろう、具合が悪くて寝込んでいるのかもしれない。夕方私が外から帰ってくると、誰かが彼の部屋に出入りしているのが見えた。彼の友人だった。友人が部屋の中を整理していた。彼は何日も前に病院に運ばれて昨日ついに逝ってしまったと友人が言った。部屋はもう半分以上片付いていて、彼が本当に居なくなったことを語っていた。しかし私は夜中に見たのだ、彼が植木に水をくべているところを。そうして私達は挨拶したのだ、おやすみなさいと。友人が言った。彼は時々君のことを話していたよ、可愛い東洋の女の子が居るって。そんなことを友人の口から零れると、私は言葉も無く涙が零れるばかりだった。私が見た彼は幻だったのかもしれない。それとも彼は私に会いに来てくれたのかも知れない。幾ら考えても分からないけど、できれば会いに来てくれたのだと思いたい。私は眠りの中でそんな様子を眺めながらそんなことを考えていた。
夜に雨が降ると時々彼を思い出す。もう名前も覚えていない、ほんの小さな接触があっただけの隣人。でも、多分私達は良い隣人だったのだろう。うん、きっとそうに違いない。
夜に雨が降ると時々彼を思い出す。もう名前も覚えていない、ほんの小さな接触があっただけの隣人。でも、多分私達は良い隣人だったのだろう。うん、きっとそうに違いない。
by yspringmind
| 2009-11-02 23:23
| 友達・人間関係